死んだほうがマシなことだってあるーなんで僕に聞くんだろう。(幡野広志)
著者はガンを患っている写真家で、元狩猟家で、一児のパパである幡野広志さんだ。
本書は「cakes」で連載されていた「幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。」から抜粋された記事を書籍化したものである。
タイトルの通り、幡野さんは血液のガンを患った写真家の方なのだが、なぜだか彼のところには多くの人生相談が寄せられるそうだ。
恋愛しまくってる恋愛戦士のようなお坊さんに相談したほうがいいのではないだろうか。(p4)
本書を読むまで、私は幡野さんを知らなかったのだが、彼の言葉の一つ一つに彼の人柄や魅力を感じた。そういった滲み出る人間味を相談者たちも感じ取っているからではないだろうか。本人は文章のことをほめれると気恥ずかしいらしいが。(p117「幡野さんみたいな文章を書きたい」)
過去ツイートを確認しようとスクロールしましたが、Wi-Fiが弱くてすぐあきらめました。(p36)
叔父のことは霊媒師、妻の叔母のことは腹話術師とぼくは呼んでいるのだけど、正直なところ、死ぬまで会わなくていいかな。(p54)
ちなみにこのデスはdeathとかけてます。誤変換ではありませんデス。(p114)
なんとなく幡野語録?を抜粋してみたが、どのような場面での言葉かは是非本を手に取って確認してほしい。
何かを否定すると自分の可能性も狭める
幡野さんはこのようなことを様々な場面で言っている。(p74 誰かを否定することは自分の可能性も狭める)
彼の飾らない言葉の一つの軸としてあるように感じた。
障害のある寝たきりの子どもを見て「怖い。気持ち悪い。こんな風になりたくない。」と小さな子が言っていて、その子にどう声を掛けたらよかったか?といった相談に対して
だから、障害があろうがなかろうが、人は国籍も性別も病気も多様性があって、あたりまえということを教えます。そして何よりも自分と違うことが、たのしいということを教えると思います。
(中略)
自分と違う存在をまずは認めるということです。(p136)
子どもを産む覚悟ができない女性に対して
(こんな気持ちで産むなんて無責任だし、失礼だ)
あなたが自分にかけた呪いの言葉はいつか、悩む誰かにあなたがかけてしまいます。あなたが誰かの敵になってしまいます。だから絶対にやめましょう。(p142)
他の相談に対しても幡野さんはこのような考え方の大切さを説いているように感じる。”多様性”については以前の書評についても触れているが、私自身とても大切にしたいものだ。
納得するかどうかは二の次で、まずは受け止める、認めること。その上で自分にとって大事にしたいことを考えながら、分析して、付き合っていく。そんなひと手間で見えている世界の解像度はとってもあがる。写真家だけにね、と教えてくれるような気がする。
死生観、幸せとは
いささか、まとめのようなことを書いてしまったが、もう少し本書の魅力について紹介したいと思う。
幡野さんは、大病を患ったから、というわけでもないのだが、人の死や幸せについてもよく話されている。
どんなしあわせが待っているかわからない、だから生きるんだ。という党員規則もわかるのですが、世の中と人の心はもうちょっと複雑で、死んだほうがマシなことだって、命よりも大切なことだって存在します。(p105)
ぼくも病気になって自殺を考えましたが、自殺したいときにいちばん苦しかったのは自殺を否定する人の言葉です。(p115)
彼の軸には「多様性」があるといったが、もちろん人の生き死に、幸せにだって多様性は存在する。これは勝手に死ねばいいとかそういったものではなく、「生き方の選択」と彼は言っている。
「まずは自殺することを否定せずに、肯定してあげてください。いつでも死のうと思ったら死ねるんだから、いまを生きる方法を一緒に考えましょう」(p115)
きっと「いい写真」と「うまい写真」とおなじことで、誰かが作った常識に疑問を持つことって必要です。写真とおなじで、生きかたも、ちょっとしたアドバイスと、視点や思考をすこし変えるだけで一気によくなるとおもいます。(p116)
「普通」という言葉に気をとられないでください。時代は変わりました、いろんな環境の人がいます、これからの「普通」は多様性です。いろいろな幸せの価値観があります。あなたがしあわせならそれでいいんです。(p34)
仕事や人間関係など生活と切り離せないくせに、自分の幸せと関係ないこともあるし、さらには幸せを妨害してきたりすることだってある。もちろん、折り合いをつけながら、嫌なことだって頑張らなくちゃいけない。
ただ、その息苦しさから、自分の夢を否定したり、自分を傷つけることなんてないんだ。
「マジでヤバい」ときには逃げ出してしまおう。
人生を息苦しくするのも、ハッピーなものにするのも結局は自分なんだ。周りが敵だらけに見えた時、もう少し自分勝手に幸せになりたいとき、この本はそっと背中を押してくれると思う。
【音楽目線#2】好きが止まらないーJohn Mayer(と素晴らしいバイプレイヤーたち)②
素晴らしきかな、縁の下の力持ち
前回の記事に続き、私が愛してやまない「ジョン・メイヤーとその仲間たち」について掘り下げていく。
今回もアルバム+仲間たちの構成で進めていく。
Continuum
言わずと知れた名盤!!あの「Where the Light Is」でもこのアルバムの多くの曲が収録されている。
「Belief」は聞きまくりまくったなー。
John Mayer - Belief (Live in LA) [High Def!]
これにも多くの素敵な音楽家が参加しているのだが、まずは「In Repair」からみていく。
"One Day One Song"とあるように、作曲・作詞をなんと一日で完成させている。
一曲が出来上がるまでのプロセスが、ジョン・メイヤーの頭の中を覗いているようでとても新鮮で面白い内容となっている。
セッションしながら楽曲のアイデアを出したい人生だった。
この中でSteve Jordanと共にバンドを支えているのが”カスタム多弦ギタリスト”Charlie Hunterである。
多弦といっても Tosin Abasi のようなメタル畑のギタリストではなく、ベース+ギターのハイブリット弦奏者といった感じである。
映像でもわかるように実力もすさまじく、ジョン・メイヤーだけでなく、D'Angelo の「Voodoo」など多くの有名楽曲のサポートもこなすプレイヤーである。
また、この「Continuum」にはジョンのスペシャルな友達がもう一人参戦している。
あのMaroon 5の現ギタリストJames Valentineも演奏しているのだという!
「Stop This Train」とアルバム版「In Repair」にてギターサポートとして入っているそうだ。
同世代ギタリストとしてしのぎを削り合っていたのだろう。
Where the Light Is
ついに来ました、音楽人生変わるアルバム。まずは買ってみることからスタート。
当時若干30歳な若者がなんとブルージーで、ロックで、ポップで、クールなことか!
もし自分でライブをやるのであれば、とりあえずおっきな絨毯ひきたくなるくらいおススメ。
ここでは、以前紹介したベーシストの David LaBruyere 、ドラムの JJ Johnson 同様、ジョンを長きにわたりサポートしていた二人のギタリストを紹介する。
David Ryan Harris と Robbie McIntosh である。
www.youtube.com 三人のソロ回しが各人の色が存分に出てて最高
まずは上手の守り神 David Ryan Harris 氏から紹介していく。彼はブルージーでソウルフルな男気溢れるギタリストな印象だ。
個人の活動ではシンガーとしても活躍していてジョンの「Slow Dancing In A Burning Room」のカヴァーは本家とはまた違った哀愁漂う素晴らしい歌声を披露している。
またこれは最近の Jam Session の様子で、ジョン・メイヤーや Isaiah Sharkey らと仲良く楽しそうに演奏している。
お次は下手の番人”スライドギターの名手” Robbie McIntosh 氏の登場である。
彼はセッションギタリストとして活動しながら、1988年から1994年までは Paul McCartney のバンドでもその手腕を発揮している。
2000年台はジョンのアコースティックライブのサポートをよくしていた印象がある。叔父と甥感がすごい。
現在も精力的に活動を続けている。またジョンのバンドで演奏しているところ見れないかなー
Battle Studies
デビューから「Battle Studies」までがジョン・メイヤーのプレースタイルの一つの区切り目のように思う。
おススメは Taylor Swiftと共演した「Half of My Heart」
親日家で知られるジョンだが、動画では2010年ワールドツアー東京公演時のオフショットも見ることができる!
前述の通り、この曲にはTaylor Swiftが参加しているのだが、もちろんずぶずぶの関係だ。
記事にもあるように生涯モテキのジョンは当時20歳のTaylor Swiftと付き合っている。
しかも、破局後は互いに互いのことを曲にして、豪勢な喧嘩にまで発展している。
こわいこわい。
魅力を再確認
結局今回も中途半端なところで、やる気が尽きてしまった。次回で終了にしたい。
ジョン・メイヤーを支えるプレイヤーたちを深堀!と意気込んでみたが、結局アルバムの紹介になっていそうだが、ご愛敬。
調べるほど、ジョンの人として、プレイヤーとしての魅力を再確認できた。
さて、次回でちゃんと終わらせよう。
【音楽目線#1】好きが止まらないーJohn Mayer(と素晴らしいバイプレイヤーたち)
2020年4月24日、読んだ本の備忘録として始まったばかりの当ブログ。本を読み進める間でも何か書きたいなーと思い、ふと、そうだ、大好きなジョン・メイヤーについて書いてみようと思い立った5月1日深夜。
好きが溢れちゃう
さて、ジョン・メイヤーって何者?からはじめるべきであろう。
ジョン・メイヤー、これまでの経験人数についてインタヴューで言及 | NME Japan
プロフィール (Wikipediaより)
・ジョン・メイヤー(ジョン・クレイトン・メイヤー、John Clayton Mayer, 1977年10月16日 - )
・アメリカ合衆国のシンガーソングライター、ギタリスト。バークリー音楽大学中退。トモ藤田氏に支持。
ギタリストとしての評価は非常に高く、若手ながらすでにエリック・クラプトンやバディ・ガイ、B.B.キングなどの大御所ブルース・ギタリストとの共演を果たしている。
米Rolling Stone誌の2007年2月号ではジョン・フルシアンテ、デレク・トラックスと共に「現代の三大ギタリスト(The New Guitar Gods)」に選定された。
つまるところ、現代の最高のギターヒーローの一人というわけだ。
ジョンとの付き合いはかれこれ6年くらいになる。
当時の新作「Paradise Valley」の”草原にたたずむジョン”というジャケットのポスターを千葉のある駅で見つけて、軽音サークルの友人のトムに何者か?と尋ねたところ、ジョン・メイヤーという凄腕ギタリストだよ、と教えてもらった。
早速家に帰ってYouTubeで検索をかけた。
度肝を抜かれた。
その時聞いたのは2007年にロサンゼルスで行われたブルーレイ化もされている伝説的ライヴ「Where the Light Is」の1曲目「Neon」である。
ナイスなルックス、甘い歌声、超絶技巧のギタープレイ、え、アコギってこんな音鳴るの?!って。しかも当時30歳だったという、なんという才能。
当時YouTube上にこのライヴのフルの映像があがっており、一気見したのを今でも覚えている。
アコースティック編成から始まり、Steve Jordan、Pino Palladinoを率いてのJohn Mayer Trio、フルバンドでの演奏という最高の3部構成となっております。買いましょう。
愉快な仲間たち
ジョン・メイヤーとの出会いはこんなところだろう。ジョンについての愛は語り切れないが、それだけでは二番煎じもいいところだ。そこでジョンを支える愉快なスーパープレイヤーたちを紹介したいと思う。
最近では星野源などはベースにハマオカモト、ギターに長岡亮介、ドラムに河村”カースケ”智康といった他バンド兼任のメンバーを起用してライヴやレコーディングを行っている。どうゆう理由かは、わからないが、たぶんめちゃ仲が良いのと、めちゃ楽器が上手いからだと単純に思っている。
こういったプロミュージシャンの横のつながりは、海外のミュージシャンは昔から強かったように思う。よく他のアーティストのアルバムにひょっこり出てる感じ。このひょっこり、穴場感がとても好き。
アルバム+スペシャルゲストといった形でまとめていく。
Inside Wants Out
あんまり知られていない印象のデビューEP。バークリー在学中から練っていたアルバムで、「Back to You」「No Such Thing」「My Stupid Mouth」「Neon」といった曲たちもすでに収録済みだ。
このアルバムでベースを弾いているのが、ジョンを2010年辺りまで長きにわたり支えることとなる音楽プロデューサーでもあるDavid LaBruyereだ。
あーあの人か!となるのではないだろうか?そう、「Where the Light Is」の第3部のロン毛センター分けのイケメンがこの人である。
「No Such Thing」ばかり紹介してしまっているが、それは仕方ない、名曲だから。また、この曲は「Where the Light Is」のアルバムには収録されておらずライヴ映像のみとなっているので、是非聞いてほしい。とても良いサムネだと思う。
Room for Squares
このジャケはみたことがあるのではないだろうか。
あるいはこっち?ちなみにジョン・メイヤー好きで知られるシンガーソングライターのsyomaさんは自身のアルバムのジャケットはこれのオマージュだと言っていた。
この辺りのサポートはDavid LaBruyere氏を中心に特に変化はない。
特徴を述べるなら「Your Body Is A Wonderland」がグラミー賞を受賞。「Why Georgia」が最高ということだろうか。
Heavier Things
このアルバムといえば、イントロが特徴的な「Bigger Than My Body」。
このライヴでドラムを演奏しているのが、あの新三大ギタリストの一角Derek Trucksとその妻Susan Tedeschiによるバンド「Tedeschi Trucks Band」のドラマーになっていたJJ Johnsonである。
彼はDavid LaBruyere同様長い間ジョン・メイヤーのサポートドラマーとして活躍し、「Where the Light Is」でもその最高のビートを刻んでくれている。
ドラマーつながりで驚いたのが、アルバムの1曲目「Clarity」はあのThe RootsのQuestloveがドラムサポートで入っていたという!
ジョン・メイヤーとQuestloveは今でこそ多く共演しているが、このころからとは恐るべきジョン!
タイムズスクエアでのAlicia Keysとの共演は至高。。
Try!
ついに登場ジョン・メイヤー、Steve Jordan、Pino PalladinoによるJohn Mayer Trioのファーストアルバムだ。
「Who Did You Think I Was」「Good Love Is on the Way」ヘンドリックスのカヴァー「Wait Until Tomorrow」も外せないだろう。
各人の素晴らしいプレイによってどれもスリーピースバンドのそれとは一線を画く。
また、先日亡くなったBill Withersのカヴァー「Ain't No Sunshine」も格別だ。
アルバムタイトルにもある「Try!」は疾走感抜群のいかにもジョン・メイヤーの手癖満載の曲で楽しいのだが、この曲にはスペシャルなゲストギタリストも参加していることにお気付きだろうか?
Chalmers Edward "Spanky" Alford、jazzギタリストである。彼はそのテクニックもさることながら、D'Angelo、The Rootsといったビッグネームとの共演でも知られている。
また現在のジョン・メイヤーのサポートギタリストのIsaiah Sharkeyもこの"Spanky" Alfordから多大な影響を受けていると確か雑誌のインタビューで答えていた。
(そんなIsaiah Sharkeyが"Spanky" Alfordと同じD'Angeloのサポートをしているのも感慨深い)
やっぱり好きが溢れちゃう
ここまで少々脱線しながらアルバム紹介しながらジョン・メイヤーを支えてきた素晴らしいプレイヤーたちを紹介してきた。
だが、まだアルバム4枚程度。まだまだアルバムも含め魅力を伝えきれていない。
ということで後半戦、あるいはあと2回ほど続編がでると思う。
色々な角度から好きなもの、こと、人を見直してみてはいかがだろうか?
未来の漁師に必要な能力は何か?-22世紀を見る君たちへーこれからを生きるための「練習問題」(平田オリザ)
教育のことはわからない なぜなら、未来はわからないから(p5)
本書は劇作家、演出家、教育者として知られる平田オリザさんが題の通り22世紀に向かって生きていく若者たちに必要な力とは何なのか?その力を育てるために国は、教育はどのように進んでいくべきか?について問題点を挙げながら、自身の考えをまとめたものである。初版は2020年3月20日発行。
本書の構成は以下である。
序章 未来の漁師に必要な能力は何か?
第1章 未来の大学入試(1)
第2章 未来の大学入試(2)
第3章 大学入試改革が地域格差を助長する
第4章 共通テストは何が問題だったのか?
第5章 子どもたちの文章読解能力は本当に「危機的」なのか?
第6章 非認知スキル
第7章 豊岡市の挑戦
終章 本当にわからない
1.大学入試改革とは何だったんだろうか?
主に序章~第3章、第6章辺りから抜粋しながら要約していきたいと思う。
早速だが著者が考える今後の日本の教育の在り方の一つの考えが以下である。
このような主張になぜ至ったについて述べる前に、そもそも日本政府が考える今あるいは今後求められるとされている能力について、大学入試改革の経緯等も交えながら簡単にまとめていく。
2020年の1月、現行のセンター試験が廃止され、いわゆる共通テストが開始される。(中略)「高大接続」と呼ばれ、大学入試の改革をテコにして、高校と大学の授業カリキュラムにも変革を迫ろうとする意欲的なものであった。これを称して「三者一体の改革」と言う。(p29)
さらに文科省はこれからの時代に必要な能力として以下の「学力の3要素」という概念を提言した。
ここで言う三要素とは、次の通りである。
■基礎的な知識・技能
■思考力・判断力・表現力等の能力
■主体的に学習に取り組む態度
また、三項目の「主体的云々」については、2014年に出されたいわゆる「高大接続改革答申」では、「主体性・多動性・協働性」と言い換えられている。(p30)
つまり政府は
「未来の世界ではこの学力の3要素(実はピラミッド型になっていて三項目が重要)のような能力が大切になっていくから、大学入試もこれらを評価できる形に改革するし、普段の授業でもこれらの能力を育てる活動(いわゆるアクティブラーニング)をしていきましょう」
という改革を行おうとしたといえる。
残念ながら様々な問題があり頓挫してしまったが(詳しくは本書第1章、第4章)、改革の方向性、「主体性・多動性・協働性」を身に着けることなど全体的には良いものだったと私は思う。
著者は「主体性・多動性・協働性」の重要性を「共同体」という観点からいくつか例を用いて説明している。
かつてこの豊岡、但馬の地に、東井義雄という教育者がいた。日本のペスタロッチとも呼ばれる東井先生は、昭和30年代に「村を捨てる学力、村を育てる学力」という概念を提唱した。このまま、いわゆる「学力」だけを伸ばしても優秀な子どもほど東京に出て行ってしまい、村は疲弊するばかりだ。もっと共同体を豊かにするような教育に、その教科内容を切り替えるべきではないか。(p14)
大阪大学リーディング大学院選抜試験の開発に携わった際、ミーティングにて漫画「宇宙兄弟」を例にとったとき。
そこでは当然、いろいろな能力が要求される。共同体がピンチの時にジョークを言って和ませられるか。明晰な解析力でピンチの本質を整理できるか。斬新な意見で共同体をピンチから救えるか。しかし、どんなにいい意見を言っても、日頃から地道な手作業などに加わっていないと信頼されない、などなど。(p67)
また、本書p69-70にもあるように現代社会ではweb上での公開講座やオンライン授業などが活発になったことで、知識や情報を得るコストは急速に低減した。だからこそ、
今は「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」、つまりどのような「学びの共同体」を創るかが重要なのだ
という(実際、西川純先生が提唱している「学び合い」(p181)ではいかに学び合えるクラスを作れるかが重要となり、基礎学力も向上している)。
多様な学びが作りたいなら、多様な共同体、強くしなやかな共同体を創っていくことが必要である。
2.身体的文化資本
ここからは「主体性・多動性・協働性」を養うために冒頭で述べた著者自身の考えについて触れていく。
本書のキーワードの一つに「身体的文化資本」がある。
まず、「文化資本」は細かく、三つの形態に分類される。
一、「客体化された形態の文化資本」(蔵書、絵画や骨董品のコレクションなどの客体化した形で存在する文化的資産)
二、「制度化された形態の文化資本」(学歴、資格、免許等、制度が保証した形態の文化資本)
三、「身体化された形態の文化資本」(礼儀作法、慣習、言語遣い、センス、美的性向など)
(中略)
この身体的文化資本を「センス」と言ってしまうと身も蓋もないが、「さまざまな人々とうまくやっていく力」とでも言い換えれば、それが2020年度の大学入試改革以後に求められる能力に、イメージとして近づくだろうか。(p89)
つまりこの「身体的文化資本」とは「主体性・多動性・協働性」を内包したより広義の能力というわけである。
しかし、この身体的文化資本は「センス」と表現されるようになかなかに多くの問題をはらむ。(p91-101)
・身体的文化資本は20歳までに形成される。
・身体的文化資本の格差は経済の格差と直結している。
・身体的文化資本を身に着けようという発想を持つこと自体が、自身を「非文化的」なものに変貌させてしまう。
・ましてや教育改革に持ち込もうとするとより格差は明確になってしまうというジレンマ。
などなど、確かにと思うものばかりである。習慣や性質などは一朝一夕で身につくものではないし、小さいころからの積み重ねであると思う。また経済的な豊かさがあれば、非言語的な文化にも触れやすく、多くの多様性と出会える。難しいが、必要なものだとも実感できる。
加えて「非認知スキル」という用語も重要となってくる。
これは学力テストなどで「認知」できる能力の対となるもので、知識や思考力を獲得するために必要だと思われる力、具体的には集中力、忍耐力、やり遂げる力、協調性などがそれに該当する。感情や心のコントロールに関する能力ともいわれる。
以下では本書に挙げられている「身体的文化資本」や「非認知スキル」に関する調査についていくつか抜粋する。
著者はお茶の水女子大学が発表した所得等の家庭状況と学力に対する調査の分析結果から「所得が低くても高い成績を示している」一群について調べれば、教育格差をなくすヒントが得られると考え、そこには「非認知スキル」が関係してくるのではと考察し(正確には調査を行ったお茶の水女子大学の浜野教授の考えに賛同した)、ゆるやかではあるが両者には正の相関があることが確認できた。(p177-p181)
浜野教授の研究で子供の学力差に関して親の日頃の子どもに対する働きかけ、接し方がどのように影響しているかというものがある。
興味深いのは、次に大きなポイント差が付いたこの項目だ。
■博物館や美術館に連れて行く・・・15.9ポイント差
これは、「毎日子どもに朝食を食べさせている」の10.4ポイント差を大きく上回っている。(p186)
つまり、ちゃんと毎日朝ごはんを食べるという習慣では学力差はあまりつかず、美術館に連れてってあげた方が学力を向上させる可能性を秘めているということである。(p184-187)
これら浜野教授の研究結果は「身体的文化資本」や「非認知スキル」がただの「人間力」だけでなく、基礎学力の向上に対しても何らかの、良い関係性がある(かもしれない)というエビデンスになっている。
3.まとめ
もう一度平田氏の主張を確認しておこう。
なぜ、身体的文化資本を高める必要があるのか、それは豊かな多様な共同体にしていくため。
もちろん勤勉な学力の高い者も集団には必要だ。自身の非認知的な部分を磨くことは浜野教授の例にもあるように学力とも関係し、よい共同体はよりよい学び合いができる。
また「教育政策と文化政策を連動させて」とあるように市町村あるいは国をあげて連携していかなくては、身体的文化資本と現代教育のジレンマは解消されることはないだろう。
本書には演劇教育や豊岡市の取り組みなど詳しい例が多くあるので読んでみてほしい。ここでは取り上げられなかった課題はまだまだ山積している。是非この「練習問題」に取り組んで還元していってほしい。
出版されたものとは多少異なるが以下のwebサイトでも参照できる。
強くしなやかな共同体を築くために。
多様性ってめんどくさいーぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(ブレイディみかこ)
老人はすべてを信じる。中年はすべてを疑う。若者はすべてを知っている。子供はすべてにぶち当たる。
この本はイギリス在住の著者とその息子、周りのさまざまな人たちの日常に起こる面倒くさいしちょっと目をそらしたくなる多様性についての物語である。初版は2019年6月20日発行。
著者であるブレイディみかこはこれまで『労働者階級の反乱――地べたから見た英国EU離脱』(光文社新書)、『ヨーロッパ・コーリング』(岩波書店)、『子どもたちの階級闘争』(みすず書房)など英国在住者から見た政治、労働者、人種、ジェンダー、子供などの観点から多くの本を出版している。今作の舞台もイギリスのブライトンということで、作中ではリアルなイギリスの現状についても多く語られている。
https://heapsm
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著者はどの作品においても”多様性”について考えることを大切にしている。「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の「ぼく」もリアルイギリスの多様性に悩まされるのだが、幼い子供とは思えない、あるいは幼いからこその多様性についての金言がそこかしこにちりばめられている。いくつか紹介したいと思う。この子はみていてとてもおもしろい。
1.ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
本書のタイトルでもあるこの言葉はカトリックの小学校からイギリスの田舎の元底辺中学校に入学した息子が言ったセリフである。
そこはもともと、「ホワイト・トラッシュ(白い屑)」というまことに失礼な差別用語であらわされる白人労働者階級の子どもたちが通う中学として知られていた。(p15)
カトリックの小学校では移民の子どもも多く通っている中で、進学した中学校はほとんどが白人の子という「多様性格差」が起こっていたという。
日本人とアイルランド人を両親に持つこの子は年を重ねるごとに東洋人のような顔つきになっており、アイルランド人の旦那さんはそんな環境では息子はいじめられるのではないかと心配していたが、入学早々新しい友達もでき、毎日勉強にクラブ活動に忙しくも楽しい日々を送っていた。
ある日、息子が国語のノートを自室に忘れており、そこには「ブルー」という単語が表す感情は?という質問に対して息子の回答には赤ペンで添削が入っていた。
「『怒り』と書いたら、赤ペンで思い切り直されちゃった」と夕食時に息子が口にしたので、「えーっ、あんたいままでずっとそう思ってたの?」とわたしは笑い、「ブルーは『悲しみ』、または『気持ちがふさぎ込んでる』ってことだよ」と教えると、学校の先生にもそう添削されたと言っていた。(p26)
さらに、そのノートの、すみっこにはこんな落書きがあった。
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(p26)
やはり自分の人種的なアイデンティティの中で苦悩していたのか?息子はどのような意味合いで『ブルー』であったのか?、これから始まる多くの「多様性体験」を通して「いい子」な息子がどのようなカラーを見出してくのか?今後の展開の軸となる面白い言葉だった。彼にはこのような名言?が多くとても聡明であることも本書の魅力の一つである。
自分が11歳の時はどうだっただろうと振り返ってみたりしたが、全く記憶がない。
2.多様性はややこしい
ハンガリー移民の両親をもつわりには移民に対する古臭い表現の差別発言が多いハンサムなダニエルと喧嘩したり、万引き癖のある坂の上にある「ヤバい」高層公営団地に住むティムと仲良くなったりと小学校のときとはまた違う日々を過ごしていた。
あるとき、このダニエルとティムに息子が板挟みになったことがある。
冬休みが終わり、二学期が始まると雨降りの朝が続いた。うちはわたしが自転車を運転しないので、雨が降っても徒歩通学だ。が、学校に着いたら制服のズボンのすそがずぶ濡れのうちの息子に同情し、友人たちが一緒に車で登校しないかと誘ってくれているようだ。
坂の上の高層団地に住むティムは、雨がひどく降る朝は一番上のコワモテの兄が(盗難車という噂もある)車で学校まで送ってくれるようで、ちょうどうちの前の道を通っていくから二日ばかり連続で息子を一緒に乗せて行ってくれた。ところが、その噂を聞きつけたダニエルが、うちのBMWに乗っていけと執拗に息子を誘っているらしい。(p57)
息子はうまくこの板挟みを解決しようと考えるのだが、いかんせんこの二人相性が悪い。片や差別発言が目立つ移民の子、片や白人労働者階級の「チャブ団地」に住む子である、衝突は避けられないように思える。
息子はカトリックの小学校では外国人の両親がいる子がたくさんいたけど、このような面倒ごとにはならなかった、多様性はいいことなんでしょ?と問いかける。
「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」
「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」「楽じゃないものが、どうしていいの?」
「楽ばかりしてると、無知になるから」とわたしが答えると、
「また無知の問題か」と息子が言った。
以前、息子が道端でレイシズム的な罵倒を受けたときにも、そういうことをする人は無知なのだとわたしが言ったからだ。(p59)
多様性を認めて生きることはとても大事なことである。が多様性は無限ともいえる広さをもっているから、ただ認めるだけでは矛盾した解決するのが難しい場面があることも確かである。
そこではやはり著者が言うように、「考えることをやめない」ことがこの多様性の世界をどうにかして生き抜く強力な方法なのだと思う。
息子はこの板挟みに次のような答えを出している。
それから数日後、再び雨が激しく降った朝に、ティムから携帯に電話がかかってきて、いつものように兄ちゃんの車で迎えに行くという誘いを息子は断った。しばらくすると、また携帯の呼び出し音がしゃらしゃら鳴って、「いや、今日は大丈夫。父ちゃんが車で送ってくれるから」と息子が言っているのが聞こえた。どうやら二度目の電話はダニエルだったらしい。(p60)
このように言っているが、父親は夜勤明けで寝ているので、息子は歩いていくというのだ。初めて知ったのだが、英国人(特に男子)は傘をささないことがクールとされているらしい。息子は傘もささずに雨の中家を飛び出した。
どうやら息子にとって、いまのところの多様性とはずぶ濡れになることのようである(p60)
この辺りは、なんというかとても子供らしいと感じた。このようなシンプルなことのほうが多様性とは合うのかもしれない。ただ、その後ずぶ濡れの姿でどんな風に二人から言われたのかは気になるところである。
3.自分で誰かの靴を履いてみる
英国の効率学校教育では、キーステージ3(11歳~14歳)からシティズンシップ・エデュケーションという市民教育的な学びの導入が義務図けられている。息子はそのシティズンシップ・エデュケーションの筆記試験最初の問題であった『エンパシーとは何か』について次のように答えている。
「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」(p73)
エンパシーとは「他人の感情や経験などを理解する能力」、よく混同されがちな言葉にシンパシーがあるがこれは「思いやりや同情、共感、共鳴すること」であるそうだ。つまり、エンパシーとは同情などから自然と相手に思いを巡らせていくことではなく、相手の立場に立ってどんなことを考えているのだろうと想像する力であると言える。このエンパシーについて考える場面が息子に訪れることとなる。
交通機関や学校などが休校になるほどの大雪が降ったある日、息子と著者は昔の友人からの頼みでホームレス支援団体の事務所に食料などを届けるボランティアに参加していた。友人が路上生活者が多いのは緊縮財政の影響が出ていると言うと息子は質問した。
「そんなことしたら困っている人たちは本当に困るでしょ」「そう。本当に困ってしまうから、いまここでみんなでサンドウィッチを作ったりしているの。互助会が機能していないから、住民たちが善意でやるしかない」
「でも、善意っていいことだよね?」
「うん。だけどそれはいつもあるとは限らないし、人の気持ちは変わりやすくて頼りないものでしょ。だから、住民から税金を集めている互助会が、困っている人を助けるという本来の義務を果たしていかなくちゃいけない。それは善意とは関係ない確固としたシステムのはずだからね。なのに緊縮はそのシステムの動きを止める。だからこうやってみんなで集まって、ホームレスの人々にシェルターを提供したり、パトロール隊が出て行ったりしているの」(p80)
息子はホームレスの人に動揺しながらもしっかりとお手伝いをしてホームレスの人からも感謝されてちょっと歪な形をしたキャンディーをもらった。
「ホームレスの人から物をもらっちゃったりしてもいいのかな、ふつう逆じゃないのかなってちょっと思ったけど。でも、母ちゃん、これって…善意だよね?」と息子が言った。「うん」
「善意は頼りにならないけど、でも、あるよね」(p84)
善意というのは不安定で、何かの拍子に必ず現れるものでもない。そんな頼りないものだけど、善意があるから人は人を助けようと思えるし、相手のこと考えて行動することができる。
善意はエンパシーと繋がっている気がしたからだ。一見感情的なシンパシーのほうが関係ありそうな気がするが、同じ意見の人々や、似た環境の人々に共感するときには善意は必要ない。
他人の靴を履いてみる努力をさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな、(後略)(p84)
4.まとめ
これまで取り上げたエピソードは本書の前半部分で描かれたものである。
このあともこの親子は自身のアイデンティティや貧困、いじめなど身の回りの多様性に関する問題に直面していく。
多様性には多くの地雷が存在し、人は何の気なしに地雷をステップしながら踏んでしまうことがある。いくら避けようとしてもいつかは当事者になってしまうと思う。
だから、私も考えることをやめないで、エンパシーを持ってこの素晴らしい多様性ワールドを生きようと思う。