多様性ってめんどくさいーぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(ブレイディみかこ)

 老人はすべてを信じる。中年はすべてを疑う。若者はすべてを知っている。子供はすべてにぶち当たる。

 この本はイギリス在住の著者とその息子、周りのさまざまな人たちの日常に起こる面倒くさいしちょっと目をそらしたくなる多様性についての物語である。初版は2019年6月20日発行。

著者であるブレイディみかこはこれまで『労働者階級の反乱――地べたから見た英国EU離脱』(光文社新書)、『ヨーロッパ・コーリング』(岩波書店)、『子どもたちの階級闘争』(みすず書房)など英国在住者から見た政治、労働者、人種、ジェンダー、子供などの観点から多くの本を出版している。今作の舞台もイギリスのブライトンということで、作中ではリアルなイギリスの現状についても多く語られている。
https://heapsm

heapsmag.com
著者はどの作品においても”多様性”について考えることを大切にしている。「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の「ぼく」もリアルイギリスの多様性に悩まされるのだが、幼い子供とは思えない、あるいは幼いからこその多様性についての金言がそこかしこにちりばめられている。いくつか紹介したいと思う。この子はみていてとてもおもしろい。

1.ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

本書のタイトルでもあるこの言葉はカトリックの小学校からイギリスの田舎の元底辺中学校に入学した息子が言ったセリフである。

 そこはもともと、「ホワイト・トラッシュ(白い屑)」というまことに失礼な差別用語であらわされる白人労働者階級の子どもたちが通う中学として知られていた。(p15)

 カトリックの小学校では移民の子どもも多く通っている中で、進学した中学校はほとんどが白人の子という「多様性格差」が起こっていたという。

日本人とアイルランド人を両親に持つこの子は年を重ねるごとに東洋人のような顔つきになっており、アイルランド人の旦那さんはそんな環境では息子はいじめられるのではないかと心配していたが、入学早々新しい友達もでき、毎日勉強にクラブ活動に忙しくも楽しい日々を送っていた。

ある日、息子が国語のノートを自室に忘れており、そこには「ブルー」という単語が表す感情は?という質問に対して息子の回答には赤ペンで添削が入っていた。

 「『怒り』と書いたら、赤ペンで思い切り直されちゃった」と夕食時に息子が口にしたので、「えーっ、あんたいままでずっとそう思ってたの?」とわたしは笑い、「ブルーは『悲しみ』、または『気持ちがふさぎ込んでる』ってことだよ」と教えると、学校の先生にもそう添削されたと言っていた。(p26)

 さらに、そのノートの、すみっこにはこんな落書きがあった。

 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(p26)

 やはり自分の人種的なアイデンティティの中で苦悩していたのか?息子はどのような意味合いで『ブルー』であったのか?、これから始まる多くの「多様性体験」を通して「いい子」な息子がどのようなカラーを見出してくのか?今後の展開の軸となる面白い言葉だった。彼にはこのような名言?が多くとても聡明であることも本書の魅力の一つである。

自分が11歳の時はどうだっただろうと振り返ってみたりしたが、全く記憶がない。

2.多様性はややこしい

ハンガリー移民の両親をもつわりには移民に対する古臭い表現の差別発言が多いハンサムなダニエルと喧嘩したり、万引き癖のある坂の上にある「ヤバい」高層公営団地に住むティムと仲良くなったりと小学校のときとはまた違う日々を過ごしていた。

あるとき、このダニエルとティムに息子が板挟みになったことがある。

 冬休みが終わり、二学期が始まると雨降りの朝が続いた。うちはわたしが自転車を運転しないので、雨が降っても徒歩通学だ。が、学校に着いたら制服のズボンのすそがずぶ濡れのうちの息子に同情し、友人たちが一緒に車で登校しないかと誘ってくれているようだ。
坂の上の高層団地に住むティムは、雨がひどく降る朝は一番上のコワモテの兄が(盗難車という噂もある)車で学校まで送ってくれるようで、ちょうどうちの前の道を通っていくから二日ばかり連続で息子を一緒に乗せて行ってくれた。ところが、その噂を聞きつけたダニエルが、うちのBMWに乗っていけと執拗に息子を誘っているらしい。(p57)

 息子はうまくこの板挟みを解決しようと考えるのだが、いかんせんこの二人相性が悪い。片や差別発言が目立つ移民の子、片や白人労働者階級の「チャブ団地」に住む子である、衝突は避けられないように思える。
息子はカトリックの小学校では外国人の両親がいる子がたくさんいたけど、このような面倒ごとにはならなかった、多様性はいいことなんでしょ?と問いかける。

 「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」「楽じゃないものが、どうしていいの?」

「楽ばかりしてると、無知になるから」とわたしが答えると、

「また無知の問題か」と息子が言った。

以前、息子が道端でレイシズム的な罵倒を受けたときにも、そういうことをする人は無知なのだとわたしが言ったからだ。(p59)

 多様性を認めて生きることはとても大事なことである。が多様性は無限ともいえる広さをもっているから、ただ認めるだけでは矛盾した解決するのが難しい場面があることも確かである。

そこではやはり著者が言うように、「考えることをやめない」ことがこの多様性の世界をどうにかして生き抜く強力な方法なのだと思う。

息子はこの板挟みに次のような答えを出している。


それから数日後、再び雨が激しく降った朝に、ティムから携帯に電話がかかってきて、いつものように兄ちゃんの車で迎えに行くという誘いを息子は断った。しばらくすると、また携帯の呼び出し音がしゃらしゃら鳴って、「いや、今日は大丈夫。父ちゃんが車で送ってくれるから」と息子が言っているのが聞こえた。どうやら二度目の電話はダニエルだったらしい。(p60)


このように言っているが、父親は夜勤明けで寝ているので、息子は歩いていくというのだ。初めて知ったのだが、英国人(特に男子)は傘をささないことがクールとされているらしい。息子は傘もささずに雨の中家を飛び出した。


どうやら息子にとって、いまのところの多様性とはずぶ濡れになることのようである(p60)


この辺りは、なんというかとても子供らしいと感じた。このようなシンプルなことのほうが多様性とは合うのかもしれない。ただ、その後ずぶ濡れの姿でどんな風に二人から言われたのかは気になるところである。

3.自分で誰かの靴を履いてみる

英国の効率学校教育では、キーステージ3(11歳~14歳)からシティズンシップ・エデュケーションという市民教育的な学びの導入が義務図けられている。息子はそのシティズンシップ・エデュケーションの筆記試験最初の問題であった『エンパシーとは何か』について次のように答えている。


「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」(p73)


エンパシーとは「他人の感情や経験などを理解する能力」、よく混同されがちな言葉にシンパシーがあるがこれは「思いやりや同情、共感、共鳴すること」であるそうだ。つまり、エンパシーとは同情などから自然と相手に思いを巡らせていくことではなく、相手の立場に立ってどんなことを考えているのだろうと想像する力であると言える。このエンパシーについて考える場面が息子に訪れることとなる。


交通機関や学校などが休校になるほどの大雪が降ったある日、息子と著者は昔の友人からの頼みでホームレス支援団体の事務所に食料などを届けるボランティアに参加していた。友人が路上生活者が多いのは緊縮財政の影響が出ていると言うと息子は質問した。


「そんなことしたら困っている人たちは本当に困るでしょ」

「そう。本当に困ってしまうから、いまここでみんなでサンドウィッチを作ったりしているの。互助会が機能していないから、住民たちが善意でやるしかない」

「でも、善意っていいことだよね?」

「うん。だけどそれはいつもあるとは限らないし、人の気持ちは変わりやすくて頼りないものでしょ。だから、住民から税金を集めている互助会が、困っている人を助けるという本来の義務を果たしていかなくちゃいけない。それは善意とは関係ない確固としたシステムのはずだからね。なのに緊縮はそのシステムの動きを止める。だからこうやってみんなで集まって、ホームレスの人々にシェルターを提供したり、パトロール隊が出て行ったりしているの」(p80)


息子はホームレスの人に動揺しながらもしっかりとお手伝いをしてホームレスの人からも感謝されてちょっと歪な形をしたキャンディーをもらった。


「ホームレスの人から物をもらっちゃったりしてもいいのかな、ふつう逆じゃないのかなってちょっと思ったけど。でも、母ちゃん、これって…善意だよね?」と息子が言った。

「うん」

「善意は頼りにならないけど、でも、あるよね」(p84)


善意というのは不安定で、何かの拍子に必ず現れるものでもない。そんな頼りないものだけど、善意があるから人は人を助けようと思えるし、相手のこと考えて行動することができる。


善意はエンパシーと繋がっている気がしたからだ。

一見感情的なシンパシーのほうが関係ありそうな気がするが、同じ意見の人々や、似た環境の人々に共感するときには善意は必要ない。
他人の靴を履いてみる努力をさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな、(後略)(p84)

4.まとめ

これまで取り上げたエピソードは本書の前半部分で描かれたものである。

このあともこの親子は自身のアイデンティティや貧困、いじめなど身の回りの多様性に関する問題に直面していく。

多様性には多くの地雷が存在し、人は何の気なしに地雷をステップしながら踏んでしまうことがある。いくら避けようとしてもいつかは当事者になってしまうと思う。

 

だから、私も考えることをやめないで、エンパシーを持ってこの素晴らしい多様性ワールドを生きようと思う。

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
 

 

A8.netの申し込みページはこちら